昨年バドリナースで「来年カイラスへ行こう!」と決めてから早1年近く経ち、いよいよ出発の日が近づいてきた。このブログを書き始めたのも、カイラスへ向けての心の準備のためだった。4年前のマナリからバドリナースを経ていよいよカイラスへ。そのすべてがつながっていることを強く感じたからだ。もちろん、ヒマラヤだけがつながっているのではなく、それ以前のことから、その過程にある日々の生活の一つ一つがすべてつながっていて、そのつながりの中で不要なものは何一つないのだが・・・。
カイラス山は、チベット語ではカン・リンポチェと言う。古代よりインドでは聖なる山、シヴァ神が住む山とされている。シヴァ神の象徴である“シヴァ・リンガ”はカイラス山にそっくりだ。M大先輩は、「シヴァ・リンガが先か?カイラスが先か?」と仰っていた。仏教における世界観では、その中心、須弥山(しゅみせん)とされているところである。カイラス山の頂上付近は、人間がまだ足を踏み入れたことがないくらいに神聖なところで、そのふもとの辺りを私達は巡礼することができる。チベット人たちは五体投地で巡礼する。もちろん聖者といわれるヨーガ行者が代々修行をしているところでもある。
私達をカイラス山まで連れて行って下さるK先生は、「カイラスは死にに行くところだからね。」とか、「死ぬ覚悟が出来ている変なのが行くところだからね。」と、よく仰る。私はその度に「もう!先生はまたそんな縁起でもないことを!」と心の中で思っていた。しかし、これが“波動”なのか?最近テレビを点けるとカイラスのドキュメンタリー番組をやっていることが何度かあった。巡礼のシーンも映っていた。チベット現地人にインタビューをしていたのだが、巡礼を終えた彼らは、みんながみんな、「もう死んでもいい!」と言う。そうだったのだ!K先生が仰っていた「死にに行くところだからね!」の本当の意味はこれだったのだ。
私たちは生まれた時から死に向かって生きて行く。そして、肉体の死とともに神様の所へ帰ることができる。イコール、肉体が死ぬと神様と一つになれるということだ。しかし、ヨーガ行者は肉体が死ぬことなく神様と一つになることを目指して修行をする。このゴールが“解脱”で、自我(エゴ)を完全に放棄できた時に訪れる。自分に“自分である”という感覚が一切なくなってしまう状態である。“他と己”という区別が一切なくなってしまうのだ。
カイラスに巡礼するということは神様に最も近いところまで行けるということで、肉体はまだ残っていて、自分という心もまだ残っていて、それでも神様の手の中に入らせてもらえるような感じがする。これこそが“棺桶に足をつっこんでいる”感じなのか・・・。生きているが、最も死んだ状態に近いという感じなのか・・・。この世とあの世の境界線にいる感じがするのだろうか・・・。などと、色々カイラス巡礼について思いを馳せている。
これまで、ヒマラヤでは毎回予想以上に大きな素晴らしい気づきをいただいてきた。欲を出すのは良くないのだが、今回はどんな気づきをもらえるのか、実はワクワクしている。もちろん、これまでの海抜4000mを大きく超えて、今回は5500m以上も上がるので、高山病やその他諸々の心配は多々あるが、でも、それよりもベクトルを神様にいつも向けていたいと思う。あ~自我を早く放棄してしまいたい!!
少し前に、仲の良いヨガ友のYさんとIさんと3人で話していた。Yさんはすでにカイラスに行ったことがあるので、色々と話を聞かせてもらっていた。“マナサロワール湖にまつわる話”を聞いたその時、また、「そういうことだったのか!」状態になった。カイラスに向けての準備段階からすでにこの旅が始まっていることを実感した。実際、現地に行ってみてどういうことになるのか!?これも大きな楽しみのひとつになっている。帰って来てから続きを書こうと思う。

カイラス山は、チベット語ではカン・リンポチェと言う。古代よりインドでは聖なる山、シヴァ神が住む山とされている。シヴァ神の象徴である“シヴァ・リンガ”はカイラス山にそっくりだ。M大先輩は、「シヴァ・リンガが先か?カイラスが先か?」と仰っていた。仏教における世界観では、その中心、須弥山(しゅみせん)とされているところである。カイラス山の頂上付近は、人間がまだ足を踏み入れたことがないくらいに神聖なところで、そのふもとの辺りを私達は巡礼することができる。チベット人たちは五体投地で巡礼する。もちろん聖者といわれるヨーガ行者が代々修行をしているところでもある。
私達をカイラス山まで連れて行って下さるK先生は、「カイラスは死にに行くところだからね。」とか、「死ぬ覚悟が出来ている変なのが行くところだからね。」と、よく仰る。私はその度に「もう!先生はまたそんな縁起でもないことを!」と心の中で思っていた。しかし、これが“波動”なのか?最近テレビを点けるとカイラスのドキュメンタリー番組をやっていることが何度かあった。巡礼のシーンも映っていた。チベット現地人にインタビューをしていたのだが、巡礼を終えた彼らは、みんながみんな、「もう死んでもいい!」と言う。そうだったのだ!K先生が仰っていた「死にに行くところだからね!」の本当の意味はこれだったのだ。
私たちは生まれた時から死に向かって生きて行く。そして、肉体の死とともに神様の所へ帰ることができる。イコール、肉体が死ぬと神様と一つになれるということだ。しかし、ヨーガ行者は肉体が死ぬことなく神様と一つになることを目指して修行をする。このゴールが“解脱”で、自我(エゴ)を完全に放棄できた時に訪れる。自分に“自分である”という感覚が一切なくなってしまう状態である。“他と己”という区別が一切なくなってしまうのだ。
カイラスに巡礼するということは神様に最も近いところまで行けるということで、肉体はまだ残っていて、自分という心もまだ残っていて、それでも神様の手の中に入らせてもらえるような感じがする。これこそが“棺桶に足をつっこんでいる”感じなのか・・・。生きているが、最も死んだ状態に近いという感じなのか・・・。この世とあの世の境界線にいる感じがするのだろうか・・・。などと、色々カイラス巡礼について思いを馳せている。
これまで、ヒマラヤでは毎回予想以上に大きな素晴らしい気づきをいただいてきた。欲を出すのは良くないのだが、今回はどんな気づきをもらえるのか、実はワクワクしている。もちろん、これまでの海抜4000mを大きく超えて、今回は5500m以上も上がるので、高山病やその他諸々の心配は多々あるが、でも、それよりもベクトルを神様にいつも向けていたいと思う。あ~自我を早く放棄してしまいたい!!
少し前に、仲の良いヨガ友のYさんとIさんと3人で話していた。Yさんはすでにカイラスに行ったことがあるので、色々と話を聞かせてもらっていた。“マナサロワール湖にまつわる話”を聞いたその時、また、「そういうことだったのか!」状態になった。カイラスに向けての準備段階からすでにこの旅が始まっていることを実感した。実際、現地に行ってみてどういうことになるのか!?これも大きな楽しみのひとつになっている。帰って来てから続きを書こうと思う。

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by chitrankita
| 2012-05-21 22:05
| チベット・カイラス巡礼