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ある日のマタニティ・ヨーガ
 私達は、アーサナ(ポーズ)をしたり、呼吸法をしたり、瞑想をしたり、と日々ヨーガをしているが、ヨーガの最終目的は、大いなる存在=“ブラフマ”(=全てを創った神様のような存在。“神様”や“ブラフマ”とは人間が勝手につけた名前で、本当は“それ”としか言いようがない。)と一つになることだ。というより、“一つである”ということを知ることだ。聖典などで勉強して頭ではわかっていても、本当に“それ”を“知る”ことができるには、あと何回生まれ変わればいいのだろう・・・?

 妊婦さんはすでにお腹の中で赤ちゃんとひとつになっている。だから妊婦さんのクラスでは、「ひとつになること」について感じてもらう瞑想をよくしている。いつものように妊婦さんと一緒に瞑想している時、お腹に赤ちゃんがいない私は、「神様のような大きな存在とつながること」について考えていた。その時!ふわり・・・と浮かんだ。

 ~妊婦さんは自分の子宮の中で赤ちゃんを守っている。赤ちゃんは臍の緒で母親とつながって、酸素や栄養など生きるために必要なものをもらいながら、ただ安心してそこですくすくと育っている。それと同じように、私たちは母体である神様のような存在と見えない臍の緒でつながっていて、生きるために必要なもの(酸素であったり、熱であったり、光であったり・・・)を与えられ、守られ、安心してすくすくと成長している胎児なのだ。神様(のような存在)と私たちの関係は、母体と胎児なのだ。~

 ということだった。こんな感じで“大いなる神様のようなもの”とつながっていれば、普段感じるストレスなんて小さなものに思える。何も不安を感じることなく、安心して過ごせばいいのだ。ただ、大きな存在とつながっている臍の緒をいつも忘れなければ大丈夫なのだ。こんなことをフッと感じさせてくれるマタニティ・ヨーガはすごいと思った。

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                 家のベランダで咲いたハスの花
# by chitrankita | 2012-04-26 20:23 | マタニティヨーガ
なぜマタニティ・ヨーガがこんなに気持ちいいのか
 “マタニティ・ヨーガ”を初めて意識したのは、自分が婦人科系の手術を受けるため入院していた病院でのことだった。たまたま話をしていた看護師さんが助産師さんで、マタニティ・ヨーガ協会のマタニティ・ヨーガ指導者養成コースを受講された方だった。私がヨーガの指導をしているという話から、そうなったのだが、「受講してとても良かったので、退院して機会があれば是非受けてみたらどうか・・・。」とのことだった。後に私もそのコースを受け、今に至っている。

 しかし、そのコースを受ける前に、ヨーガ関係のある先輩からマタニティ・クリニックでヨーガのクラスを担当してみないか?と話をいただき、早速、妊婦さん達10数名と一緒にマタニティ・ヨーガを初めて受けさせてもらった。何とも言えない気持ち良さで、途中から涙が止まらなくなった。実は「ヨーガってこんなに気持ちのいいものだったんだ!」と感じたのは初めてだった。それまではポーズ重視のハードなヨーガにずっと取り組んでいたため、ゆっくりとした体の動きと呼吸を合わせて行うことも、意識を内側に向けることも初めてだった。心身ともに元気で、体を動かしたい!と思っていた頃はハードなヨーガでも良かったのだが、心身共に疲れてヘトヘトになってどうしようもなくなってしまった時、ハードなヨーガでは自分を癒してあげることはできなかった。本当は四方八方塞がりでいっぱいいっぱいだったのに、「自分は大丈夫なんだ!」と、体の声も心の声も聞かず、助けを求めずにつっぱっていた。ところが、ヨーガによって自分の内側に気持ちを向けた時に、初めて“しんどい!もうダメだ!”と叫んでいる自分を認めることができて、もう許してあげよう・・・と思った。その瞬間、「今まで心の声を聞いてあげられなくてごめんね・・・解放してあげようね・・・」と浄化の涙がどんどん流れた。その時の感動が忘れられず、それ以来ずっとマタニティ・ヨーガを指導させてもらっている。

 それにしても、妊婦さんたちと一緒にヨーガをするのは本当に気持ちいい。私はマタニティ・ヨーガのクラスが大好きだ。外では日々様々な出来事が起こり、目や耳を覆いたくなるような事件も絶えない。妊婦さんの中にも、色々問題を抱えている方もいるだろう。でも、そんな中でもクラスの中はいつも愛が溢れている。そこだけ時間が止まっているように感じる。

 妊婦さんのクラスでは、一般のクラスよりも瞑想する時間を多く持ってもらっている。お腹をなでて赤ちゃんと対話してもらったり、ただ赤ちゃんの事を思ってもらったり、自分の心の声を聞いてもらったり、を何度もしてもらう。瞑想によって涙を流す妊婦さんを見ていると、いまだに私まで胸が熱~くなってくる。「この空間は、母親が子供を守ろうとする大きな愛情でいっぱいだからこんなに気持ちいいんだろうな・・・」とずっと思っていたのだが、少し前から、「母親の愛情はもちろん大きいが、それよりも大きいのは、純真無垢な赤ちゃんのパワーなのかも・・・」と気づき、赤ちゃんの偉大さにさらに感動させられている。

 ヨーガでは、我々にはもともと神性があると考える。それは“アートマ”で、“ブラフマ(神様のような唯一絶対の存在)”と同じものである。しかし、我々は成長していくにつれて様々な経験を積み、太陽に雲がかかるように、アートマを隠してしまう(その雲を払いのけて太陽を輝かせるためにヨーガをするのだが・・・)。しかし、赤ちゃんは泥棒を見てもそれが泥棒だとは分からない様に、赤ちゃんのアートマには一切雲がかかっていない。だから赤ちゃんの存在は神様のような存在そのものなのだ。お腹の中だとは言え、その赤ちゃんがたくさんいる空間はスゴイと思う。気持ち良くて当然だ。その神様のような赤ちゃんとお腹の中でひとつになっている妊婦さんは、何もしなくても、ただ座っているだけで“ヨーガ”なのだ。


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# by chitrankita | 2012-04-23 23:37 | マタニティヨーガ
2011年続・集中内観物語
 ~内観 2~

 そして2011年5月、2度目の集中内観へ。やはりインドの前には内観!この7月にインド・バドリナース修行会に行く予定にしていたからだ。迷わずに米子内観研修所に申し込んだ。前回あれだけ大きな気づきをもらえて、感動させてもらったので、今度は何を見せてもらえるんだろう!という大きな期待と、前回あれだけの事を思い出し尽くしたので、もう一度内観してもあれ以上出ないのでは?という思いもあった。ところが、まず、米子に到着してビックリしたのは・・・!

 前回の内観参加者は私を含めて6人(男女3人ずつ)で、最大人数だったが、今回は私ともう一人の方との2人だった。そのもう一人の方は、関東方面から来られた方で、雑誌や、ニケタンの映像などで以前から見ていて、一度会ってみたいなあ・・・話してみたいなあ・・・と思っていた人だった!こんな所で、こんな形で会わせてもらえるなんて。恐るべしニケタン!私は遠くからこちらに歩いて来るその人をみた途端、すぐに「あっ!○○さんだ!」とわかり、うれしくなって、馴れ馴れしく寄って行っていきなり話しかけてしまった。かなり引かれてしまった。これから静かに内観しようと思っている人間の取るべき態度ではなかった・・・。(笑)

 その方も2回目の内観だったので、手続きも説明も簡単に終わり、すぐに屏風の中に座った。今回は小人数だったので、ニケタンの事務所の建物での実習だったが、前回は大人数だったため本堂の方で行われた。もちろん、内観中は、内観以外何もしてはいけないので、窓を開けて外をながめたりしてもいけなかったのだが、空気の入れ替えを口実に、時々少し窓を開けて、そこから真正面に見える大山の美しさは息が止まるほどだった。今回は全く見えなくてとても残念だった。

 前回と同様に母と自分について2日間、父と自分について1日・・・と進んで行った。予想以上に、前回には思い出せなかったことが出てきたので、不思議だった。何よりも驚いたのだが、H先生が優しい!「2回目だからもっと深くに内観できるようにね」と、アドバイスもしてくださった。小さなヒントを少しもらうだけで、“すーっ”と深くに入っていくことができて楽しくなった。「瞑想ってこんな風に深く入って行くんだ!」と初めて実感した。が、すぐまた壁にぶち当たるように立ち止ってしまう。それの繰り返しだった。前回は本当に表情ひとつ変えない、厳しいH先生だったのだが、今回は、私の話に相づちまで打って、「へえ~、そうだったんですか・・・そんなこともあるんですか・・・?」と聞いて下さるので、私は「そうなんです。それでね・・・」と調子に乗ってずんずん話を続けたら、最後に、「あのね、今あなたが言ったことはね、あれは全部外観!内観じゃないの!」と、また鋭い刀で真正面からバッサリ切られた!「1本取られた!」という感じだった。恐るべしH先生!

 そんなこんなで1週間無事に内観が終わり、最後の日は再び母と自分について調べた。そこで!一番最後の1時間だったと思うが、今回も、やはり前回同様に、「してもらったこと」「迷惑をかけたこと」ばかりが溢れ出て来ていたのだが、何がきっかけだったのか突然のことで思い出せないのだが、急に母の笑顔のスナップ写真のような映像が何枚も何枚も、フラッシュバック状態で、パシャッパシャッと音がするように次から次から重なり合うように出て来た。まるで映画のラストシーンを見ているようだった。「えっ?わあ~!これって・・・」と思っている間にまたまた号泣!面接官のS先生が入って来られ、号泣している私に「この1時間で何をお調べになられましたか?」と平然として質問された。「この状況で・・・そんなこと・・・」と思いながらも、「母の笑った顔が・・・ひっく・・・写真の様に・・・ひっく・・・次々と・・・ひっく・・・出て来て止まらなくなって・・・ひっく・・・」と話せなくなっていたら、「こんな時にいつもK先生がおっしゃってるように、客観視しないと・・・。」と言われた。確かにそうだ・・・。

 私が散々母を困らせて、迷惑をかけて来ていても、母はそれを迷惑だとは思っていなかった。してもらったことばかりだったが、母はそれを「してあげていた」とは思っていなかった。私がどれだけ母に対して悪いことをした、もっと母にしてあげていたら・・・と後悔していても、母は私に悪いことをされたなどとはかけらも思っていなかった。私が1週間かけて涙ながらに思い出して、散々後悔していた「してもらったこと」「迷惑をかけたこと」「お返しできなかったこと」は、すべて母の中では何でもないことで、母にはただ愛しかなかった・・・ということを、母の笑顔が私に教えてくれた。内観の最後は母の笑顔で埋め尽くされた。こんな結末になるとは・・・。

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# by chitrankita | 2012-04-21 00:05 | インド修行会
2008年インド・マナリ 聖名拝受物語
~聖名拝受~

 続いて「内観物語2」に行きたいところなのだが、ここでインド・マナリのヨーガ・ニケタンでの“聖名拝受”について思い出してみようと思う。このアシュラムには、私達のグルであるK先生の兄弟子にあたる姉妹、アルナさんとラリタさんがいらっしゃる(兄弟子でも姉妹なので女性)。そこはとてもこじんまりとして気持ちのいいところで、最初に瞑想ホールに足を踏み入れた時、このままずーっと座っていたいなぁ~という気分になった。到着していよいよ最初のサダナ(ヨーガ修行のこと)。アルナさん、ラリタさんお2人がドアから入って来られた瞬間、部屋の温度が上がったような気がした。フワーッとあたたかい、濃い~空気に包まれた感じがした。ここもまた不思議な場所で、サダナの前に私達は数名で早くから瞑想ホールに入って、ヨーガの“五蔵説”の話をしていた。それぞれが「理智鞘のところがもう一つ分からなくて・・・」とか、「意思鞘が・・・」とか討論(?)していたのだが、その後のサダナでは、アルナさんがまるで私達の話を全部聞いていたかのように、ズバリ五蔵説の話をしてくださった!「ズバリやったなぁ・・・!」と目で合図をし合った。恐るべし!

 そして、いよいよ翌日の聖名拝受式。一人一人聖名をいただくのだが、私は「chitrankita devi(チトランキータ デヴィー)」だった。意味はサンスクリット語で「美の女神」。「美ぃ?」「えっ、美ぃ~?」というのが最初の印象だった。他の人たちは、「ヨーガの智慧を○○する女神・・・」や、「聖典を○○する女神・・・」とか、「○○を導く女神・・・」のような、カッコイイ名前に思えたからだ。「名前が全部出払ってしまって、他に適当なものがなかったから、とりあえず“美”と付けておけばまあ怒らないだろう・・・」って言う感じ?などと冗談を言いつつ、「心をいつも美しくしなさい」ということかなあ、きっと・・・と落ち着いた。

 しかし、その2年後、たまたまK先生と話す機会があり、「2年前にいただいた聖名なんですが、・・・・・・という意味ですよね!?」とたずねたら、すぐに調べて下さり、「違うよ!英語で説明してなかった?“art”という文字が入っているから、“美しく表現する女神”という意味だよ!」と教えてくださった。その時は「ふ~ん、そう言う意味だったのか・・・。」と思っただけだったのだが、その数日後、ある事件が私に起こり、その原因がとても理不尽なことだったので、私もかなり沸騰しそうだったのだが、そこで!いつもの私らしくなく、大変美しい言葉使いで、敵(?)を回避した。全面的に私が悪いわけではなかったが、美しい文章でお詫びの手紙を書いてみた。すると、すべてが丸く収まった(多分・・・)。少なくとも、美しい文章を書いているうちに、自分の心が穏やかになっていった。同様に、美しい文面で書きつづられた手紙を読んで行くと、度合いもあるとは思うが、相手側も怒りの感情が治まってくるのではないだろうか・・・。そういうことだったのだ!ヨーガ=調和、平和なので、周囲と調和を保ちつつ生きていくには、何でも美しく表現すればうまくいくのだ!と実感した!恐るべし聖名!

 聖名を受けたら、その瞬間から、今までの名前を捨ててその聖名で生きて行く、と言うことで、とても深い意味を持つものだ。私はその瞬間から「美の女神」として生きて行くということだったのだ。そうすると間違いないということだ。これがまたなかなか困難なのだが、それを意識して生きるのと、そうでないのとは全く違う・・・と思う。

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# by chitrankita | 2012-04-19 22:54 | インド修行会
2008年集中内観物語
 ~内観 1~

 2008年のインド・マナリの旅は6月だった。私はその年の3月に前の職場を離れ、すぐに月末の“集中内観研修”に申し込んだ。仕事を辞めて時間ができたら何からしようか!?とワクワクしていた。当時は「インドが先か?内観が先か?」で迷ったりもしていたのだが、『絶対に内観が先だ!』。
 
 米子の内観研修所の所長は、K先生(私達のグル)の奥様のH先生だ。K先生に「今回初めて内観研修を受けてみようと思います。」と報告をした時、「家内はすごく怖いらしいよ。ニコリともしないっていううわさだよ。」と言われた。「ひえ~っ!」と思ったが、“知らない本当の自分が見つかる”ことへの期待がとても大きく、ワクワクしながら参加した。日曜から日曜までの8日間、一人一部屋を与えてもらい、部屋の隅に置かれた屏風の中で1日座る。1時間ごとにテーマを与えられて瞑想する。1時間ごとに先生方が面談に来て下さる。テーマは主に、「してもらったこと」「お返しできたこと」「迷惑をかけたこと」の3つだけで、そのテーマに基づいて、対象者に対して自分はどうであったかだけを内観し続ける。最初の2~3日間は母親と自分について延々と調べる。次に父親と自分について。その後は対象者が配偶者、兄弟、同僚など、人それぞれで変わり、最後の1日は再度母親と自分について調べる。
 
 最初の4~5日間くらいは中々深いところまで入っていけず、うわべだけをザァーッとすくっていた感じだった。それでも、「そんなことがあったのか!」と、今までかけらも思い出したことがなかった、忘れていたことをピカッと思い出して、人間の脳っておもしろいなあ・・・と思った。声をかけた記憶がなく、存在すらも覚えていなかった元職場の同僚が、結婚式のチャペルに来てくれていた場面が出てきたり、ぎゅうぎゅう詰めの超満員電車でつぶされそうになっていた私を腕でつっかえ棒をして支えてくれていたある日の乗客や、間違えて防犯ベルを押してしまった時に向こうから走って飛んできてくれた見知らぬ男性や、肉親や友人、知人はもちろんのこと、まったくの他人にまで、私は多くの事をしてもらっていたことに気づいた。そんなことにも気づかず、いままで他人を非難したり、“自分一人が良ければいい”的な考え方をしていた自分が次から次からと湧き出て来て、本当に恥ずかしく、穴を掘って隠れてしまいたい心境になった。また、今すぐ、昔傷つけてしまった友人の家に行って一言あやまりたい!と思った。
 
 両親が当時どんな気持ちで私と接してくれていたかも初めてわかった。母が亡くなり、父と実家で暮らしていた頃、私は仕事のシフト上帰宅時間がバラバラで、いちいち家に帰宅時間について電話を入れることもしなかった。ある日、駅に父が迎えに来てくれていた。「ありがとう」の一言も言わず、「なんで帰ってくる時間がわかったん?」と聞くと、父は「何となく迎えに行ってやりたかってな・・・。」と言った。私は「ふ~ん・・・」と言って、それだけの出来事だったのに、それから18年も経ち、父と自分について内観をしている時、突然その場面が浮かんだ。そこではっきりと、父の声に出さなかった心の声が聞こえた。父は、その日偶然駅に来てくれていたのではなく、実はしょっちゅう迎えに来てくれていたのだろう。いつもは何本か電車を待っても私が乗ってなかったので、あきらめて帰っていたところ、たまたまその日は何本目かに私が乗っていたのだ。妻が亡くなり一人で家にいるのが辛く、恐らくしょっちゅう駅まで来てくれていたのだろう。その頃は私も自分のことで精いっぱいで、そんな父の気持ちを考えたこともなかった。もっとゆっくり父と話す時間を持ってあげればよかった・・・と、随分経って亡き父の心の声が聞こえて来るなんて、恐るべき内観!母親については時間をかけて調べるし、山ほど色んなことが出てきたが、父については大して出てこないと思っていたので、これには感動した。

 そんなこんなで、内観中は周囲に対する感謝の気持ちでいっぱいで、毎日大いに泣いて疲れてヘトヘトになっていた。ごはんの御膳が運ばれて来る度、白い湯気を見るだけで泣けてきた。なんだかボロボロになっていた。この内観で、私は初めて「50:50(フィフティフィフティ)」「give and take(ギブアンドテイク)」の意味がわかった。私は今までの人生ずっと“take”ばっかりだった。「してもらったこと」「迷惑をかけたこと」ばかりで、「お返しできたこと」がほとんどなかった。ちょうどこの頃、人生の折り返し地点だったので、「そうか・・・今までずっとしてもらってばかりだから、残りの人生で返していけばいいんだ・・・それで50:50になる・・・もらった分を返さなければ私の今世は完結しないんだ・・・」ということに気づいた。こんなにはっきり今世で自分のやるべきことを教えてもらえるなんて。生きるのが楽になった。

 一番最後の日、H先生にその事を報告したら、「まあ、やっとわかった?普通はもっと早くに気づくんですけどねぇ・・・。」と鋭い刀でバッサリと正面から切られた!そして、「あなたの場合はお返ししたくてもその両親がもういないでしょ。だからヨーガの先生のような素晴らしい仕事に就いているのよ!お返しがしやすいでしょ!」と続いた。その刀は大きな愛がいっぱいあふれている刀だった。恐るべしH先生。

 この時からしばらく、私は“感謝のめがね”をかけてすべてを見ることができていたので、その2カ月後のインド・ヒマラヤがとても素晴らしいものになったのだと思う。もし内観に行ってなければ、色々なものを引きずって、ヒマラヤへの道が重かっただろう。背負っていた荷物をひとつひとつ降ろして行くうちに旅が終わってしまっていただろう!だから、ヒマラヤと内観は是非セットにしたいと思った。

 とは言っても、中々お返しができず、いまだに日々 take take してしまっているのだが・・・。

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# by chitrankita | 2012-04-14 00:35 | インド修行会
  

チトランキータのブログ               平井真理子・・・日本ヨーガ療法学会認定ヨーガ療法士 2002年よりヨーガ指導開始。 ヨーガセラピークラス、マタニティヨーガなど神戸~西宮を中心に活動中。
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