~ロータン峠 瞑想2~
私達は、瞑想の前にはいつも最も短く尊いマントラ「オーム(アウン)」を唱える。ロータン峠においても、いつもと同様に目を閉じて「オーム」と3回唱えて・・・とその時、亡き両親の顔がふわ~っと浮かんだ。「あら、パパとママが・・・」と思い、懐かしさで涙があふれた。が、そのまま与えられたテーマについて1時間の瞑想した。その後、しばらくアーサナをしたり休憩をして、また次の瞑想に入るための「オーム」を3回唱えようとすると、また両親の笑顔が浮かんだ。「あれ、またパパとママだ・・・」と思って涙がドーッとあふれた。が、そのまま1時間の瞑想を続けた。その日はテントで一晩過ごし、次の日の朝、また瞑想。「オーム」と唱えた時、また両親の笑顔が・・・。涙が・・・。そこで私は初めて気づいた。「そう言うことだったんだ!」
私は、24歳の時に母を、その2年半後に父を、共に癌で亡くした。母は48歳、父は54歳だった。2人が同時に入院していた時もあった。仕事と病院と家事に追われ、順に2人を看取り、その数年間は私にとってはあまりにも大き過ぎて、どれくらいの年月の間に起こった出来事だったのか、その頃の自分がどんな気持ちでどんな風に過ごしていたのか、はっきり覚えていない。もっと幼い頃に何らかの理由で親と離れて過ごすしかなかった境遇の人は世の中にいくらでもいることは頭ではわかってはいたが、私は大変甘やかされて育ったため、親離れが全然できていない状態で2人を失い、スピリチュアル的(自己存在に関する部分)に非常に不安定になってしまった(随分後になってからスピリチュアル的健康の大切さを知った)。その後、退職によりそれまで安定していた社会的な部分が不安定になり、阪神大震災に追い打ちをかけられ、糸が切れた風船のようになってしまった。
当時、周囲には優しい言葉をかけてくれた人がたくさんいて、本当にありがたく思っていた。しかし、心のどこかで、「この気持ちは誰にもわからない」とも思っていた。それでもある日、下関から釜山へいくフェリーの中で(関釜フェリーに乗って韓国の小白山に登ろうとしていた)ある友人が、「マリちゃん(私の事)のパパとママは志し半ばで死んだんと違うねん。今世での目的を果たして死んだからエエねん。」と言った。その言葉を聞いた時、私はとても救われた。そして両親の死を乗り越えたつもりでずっと過ごしてきた。しかし、本当は乗り越えられてないままずっと来てしまっていた。
ヨーガの教えを学び始めたことによって、我々の肉体も心も実在のものではなく、変化していく非実在ものであり、“アートマ(魂のようなもの)”だけが不変で実在であり、この肉体は、衣を着替えるように、寿命が来ると脱ぎ捨てていかなければならないものである、と頭ではわかっていた。しかし、3度目の瞑想で「オーム」と唱えて両親の笑顔が浮かんだ時、初めて「そう言うことだったのか!」と思った。ものすごく大きな気づきを与えてくれた神様に再び涙がドーッとあふれた。『肉体を離れた“アートマ”が“ブラフマ(すべてを創った神様のような存在)”と一つになるということ=両親の肉体を離れたアートマはブラフマと一つになった(というより、最初から一つだった。)=両親は神様と同じだ』ということを、初めてお腹でしっかりと受けとめた瞬間だった。「もう、これで大丈夫だ」と思った。
ブラフマは映画のスクリーンのようなもので、スクリーンがあって初めて映画が映される。変わらず存在するスクリーンの上で、次々と映画(我々の人生)が上映されているだけだ。だから、ブラフマは時空を超えて常に全てに偏在している。よく「生きていた時より死んだ後の方がより身近に感じる」という話を耳にするが、本当にその通りで、いつでもどこにでも両親はいる。とっくの昔に受け入れたはずだったのに、実はずっと受け入れられずにいたのだった。
両親との関係はスピリチュアル(自己存在)な部分に影響し、ここが満たされていなければ、自分の土台が揺らいでしまう。歪んだ土地に立った建物のように、私の心はずっと歪んだまま長い時間を過ごしてきた。何をしてもいつも満たされず、何かが違うと感じ、不安や不満を抱えていた以前の自分が、今でははっきりよく見える。嫌な自分を初めてちゃんと許せた気がした。
それにしても、1回見せただけでは気づかない私に、2回、3回と、「まだわからんか・・・ほなもう1回見せよか。」と気づくまで何度も何度も見せようとしてくれた神様はなんて慈悲深いのだろう。

私達は、瞑想の前にはいつも最も短く尊いマントラ「オーム(アウン)」を唱える。ロータン峠においても、いつもと同様に目を閉じて「オーム」と3回唱えて・・・とその時、亡き両親の顔がふわ~っと浮かんだ。「あら、パパとママが・・・」と思い、懐かしさで涙があふれた。が、そのまま与えられたテーマについて1時間の瞑想した。その後、しばらくアーサナをしたり休憩をして、また次の瞑想に入るための「オーム」を3回唱えようとすると、また両親の笑顔が浮かんだ。「あれ、またパパとママだ・・・」と思って涙がドーッとあふれた。が、そのまま1時間の瞑想を続けた。その日はテントで一晩過ごし、次の日の朝、また瞑想。「オーム」と唱えた時、また両親の笑顔が・・・。涙が・・・。そこで私は初めて気づいた。「そう言うことだったんだ!」
私は、24歳の時に母を、その2年半後に父を、共に癌で亡くした。母は48歳、父は54歳だった。2人が同時に入院していた時もあった。仕事と病院と家事に追われ、順に2人を看取り、その数年間は私にとってはあまりにも大き過ぎて、どれくらいの年月の間に起こった出来事だったのか、その頃の自分がどんな気持ちでどんな風に過ごしていたのか、はっきり覚えていない。もっと幼い頃に何らかの理由で親と離れて過ごすしかなかった境遇の人は世の中にいくらでもいることは頭ではわかってはいたが、私は大変甘やかされて育ったため、親離れが全然できていない状態で2人を失い、スピリチュアル的(自己存在に関する部分)に非常に不安定になってしまった(随分後になってからスピリチュアル的健康の大切さを知った)。その後、退職によりそれまで安定していた社会的な部分が不安定になり、阪神大震災に追い打ちをかけられ、糸が切れた風船のようになってしまった。
当時、周囲には優しい言葉をかけてくれた人がたくさんいて、本当にありがたく思っていた。しかし、心のどこかで、「この気持ちは誰にもわからない」とも思っていた。それでもある日、下関から釜山へいくフェリーの中で(関釜フェリーに乗って韓国の小白山に登ろうとしていた)ある友人が、「マリちゃん(私の事)のパパとママは志し半ばで死んだんと違うねん。今世での目的を果たして死んだからエエねん。」と言った。その言葉を聞いた時、私はとても救われた。そして両親の死を乗り越えたつもりでずっと過ごしてきた。しかし、本当は乗り越えられてないままずっと来てしまっていた。
ヨーガの教えを学び始めたことによって、我々の肉体も心も実在のものではなく、変化していく非実在ものであり、“アートマ(魂のようなもの)”だけが不変で実在であり、この肉体は、衣を着替えるように、寿命が来ると脱ぎ捨てていかなければならないものである、と頭ではわかっていた。しかし、3度目の瞑想で「オーム」と唱えて両親の笑顔が浮かんだ時、初めて「そう言うことだったのか!」と思った。ものすごく大きな気づきを与えてくれた神様に再び涙がドーッとあふれた。『肉体を離れた“アートマ”が“ブラフマ(すべてを創った神様のような存在)”と一つになるということ=両親の肉体を離れたアートマはブラフマと一つになった(というより、最初から一つだった。)=両親は神様と同じだ』ということを、初めてお腹でしっかりと受けとめた瞬間だった。「もう、これで大丈夫だ」と思った。
ブラフマは映画のスクリーンのようなもので、スクリーンがあって初めて映画が映される。変わらず存在するスクリーンの上で、次々と映画(我々の人生)が上映されているだけだ。だから、ブラフマは時空を超えて常に全てに偏在している。よく「生きていた時より死んだ後の方がより身近に感じる」という話を耳にするが、本当にその通りで、いつでもどこにでも両親はいる。とっくの昔に受け入れたはずだったのに、実はずっと受け入れられずにいたのだった。
両親との関係はスピリチュアル(自己存在)な部分に影響し、ここが満たされていなければ、自分の土台が揺らいでしまう。歪んだ土地に立った建物のように、私の心はずっと歪んだまま長い時間を過ごしてきた。何をしてもいつも満たされず、何かが違うと感じ、不安や不満を抱えていた以前の自分が、今でははっきりよく見える。嫌な自分を初めてちゃんと許せた気がした。
それにしても、1回見せただけでは気づかない私に、2回、3回と、「まだわからんか・・・ほなもう1回見せよか。」と気づくまで何度も何度も見せようとしてくれた神様はなんて慈悲深いのだろう。

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by chitrankita
| 2012-04-08 00:21
| インド修行会